当時、欧米列強の支配下にあり、後に独立した国々の指導者達の回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」と記されるなど、植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる[6]。ただし、しばしば使われる「有色人種の国が初めて白色人種の国に勝った」という表現は誤りである。近代以前においては言うに及ばず、近代においても第一次エチオピア戦争においてエチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例がある。また、絶対君主制(ツァーリズム)を続ける国に対する立憲君主国の勝利という側面もあった。いずれにしても日露戦争における日本の勝利が及ぼした世界的影響は計り知れず、歴史的大事件であったことには変わりない。
日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えている。
203高地( - こうち)は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵のひとつである。旧市街地から北西2kmほどのところにある。海抜203メートルであることからこの名が付けられた。
日露戦争ではロシア海軍の
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のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となったところで、第3軍の司令官として出征した乃木希典の漢詩には音を写して爾霊山(にれいさん)と詠まれた。
現在も中国海軍の軍事施設に含まれており外国人の立ち入りは禁じられてきたが、1990年(平成2年)頃から観光客に開放されるようになった。
日露戦争において、ロシアの旅順艦隊を覆滅するのに失敗した日本海軍の要請により、旅順攻略は必要不可欠なものとなり、日本陸軍が旅順要塞を攻撃した。この高地は当初あまり重要視されなかったが、旅順郊外から旅順港停泊中のロシア艦隊に砲撃しようとする際、弾着を観測する兵を配置するのに最適な場所であると気づいた日本海軍連合艦隊の参謀であった秋山真之少佐(旅順攻囲戦当時)がこの高地を攻略することを進言したことから、この高地は日露戦争の帰趨を決する旅順攻囲戦において重要な鍵を握る場所になった。というのは、203高地からは旅順港が良く見通せたのである。そのため、日本軍とロシア軍の間で争奪戦が行われ、多くの死者を出した。11月にこの戦場に来た日本陸軍第7師団(旭川)はわずか5日間で1万5千人ほどの兵力が1千人にまで減ったことで、その攻撃の凄まじさがうかがえる。防戦側に立ったロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から
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へ移された水兵までもがこの高地にて命を落とした。1904年12月5日に日本軍が占領し、永野修身海軍大尉が指揮した陸上からの砲撃でロシア東洋艦隊を壊滅させた。これ以降、旅順要塞側の抵抗は衰えていき、1905年(明治38年)1月1日、ロシア側の司令官ステッセルは降伏し、旅順を開城することになる。
二百三高地髷(にひゃくさんこうちまげ)は、日露戦争後、日本で流行した髪形で、前髪を張り出すとともに頭頂部に束ねた髪を高くまとめていた。当時普及し始めていた洋装に合う髪型として生み出された。
三十年式歩兵銃(さんじゅうねんしきほへいじゅう)は、1897年(明治30年)に三十年式銃剣とともに制式採用された旧日本陸軍の小銃である。有坂成章が開発したため、欧米では三十年式歩兵銃とその派生品をまとめて「アリサカ・ライフル」と呼称する。日露戦争では日本陸軍の主力装備として活躍した。バリエーションとして、騎兵が乗馬の際に扱い易い様に全長を300mm短くした三十年式騎銃がある。
日清戦争で日本陸軍は単発式の村田銃を主力小銃として戦った。最初の連発銃は村田連発銃として1889年に配備されたが、装填の手間、命中精度の悪さが難であった。三十年式歩兵銃は、村田銃を生んだ村田経芳の後を受けた有坂成章によって設計され、尾筒弾倉式で連発を実現することで装填を簡単にした。発射薬に無煙火薬を用い、口径は6.5ミリと小さくおさえ、高初速で優れた命中率の銃にまとめた。いずれも外国の銃にあった要素を取り込んだもので、画期的新機軸はないが、完成品は当時の世界水準を越えた傑作になった。銃身は炭素鋼であったが、要求される強度の鋼を当時の日本は製造できず、輸入に頼った。
試作の段階では、6mm、6.5mm、7mmの銃で実験されたが、6mmでは当時の工作技術では困難であり、7mmでは反動が強いため6.5mmが採用された。これは当時の軍用銃では最小の口径である。資源が乏しく、体格も貧弱な日本兵には、もっとも適した口径であった。
1897年に制式になった本銃は、1903年に
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への配備を完了した。後備役でなお村田連発銃が用いられる状況で日露戦争に入ったが、三十年式歩兵銃がこの戦争の
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であった。
後に三八式歩兵銃が採用されるが、機関部の合理化と弾頭の尖頭化がなされたのみであり、基本となった三十年式の設計思想は非常に的を射たものであった。 三八式歩兵銃が採用された後は、菊の御紋章の上に二重丸の刻印を押されて、旧制中学校以上では必修科目の教練(敬礼に始まる基本動作から、小隊もしくは中隊規模の集団行動まで教える科目)用に払い下げられた。
この小銃は海軍陸戦隊が使用しており、南部麒次郎が小改良を行い(表尺板を扇転式にしたり遊底覆を追加した)それまでのヘンリー小銃に変わって三十五年式海軍銃として採用した。
三十一年式速射砲(さんじゅういちねんしきそくしゃほう)[1]は、日本陸軍が明治31年(1898年)に制式砲とした大砲。三十一年式野砲と三十一年式山砲の2種類がある。著名な銃砲設計者である陸軍中将有坂成章が開発したもので、別名「
FX
」といわれる。日露戦争での主力砲として活躍した。
口径は7.5 cm、射程は野砲が7,800 m、山砲が4,300 mとなっていた。日露戦争中に仰角の修正や防楯の装備等改良を加え、性能を向上させている。大砲としての性能は高く、特に砲弾の性能はロシア軍を凌駕していた。日露戦争の陸戦の勝利には、この大砲と二十八サンチ榴弾砲、三十年式歩兵銃の貢献が大きかったといわれる。
しかし、この砲は簡単な復座装置しか備えておらず、発射の反動で砲架が後退してしまうという欠点があった。従って、人力で砲架を元に戻してまた照準をやりなおさなければならず、速射砲といえども実際の射撃速度は1分間に2〜3発と、あまり速くなかった。また、砲架をまっすぐ後退させることが前提の設計なので当然ではあるのだが、砲身の可動範囲は俯仰のみで、方向射界を与えるには、わずかの修正であっても砲架ごと向きを変える必要があった。日本陸軍が初めて本格的な駐退復座機を備えた火砲を導入するのは、三八式野砲の登場を待たねばならない。
アヴローラ(ロシア語:Аврораアヴローラ)は、ロシアの防護巡洋艦である。現在は、ロシア革命の象徴のひとつとして記念艦となり、サンクトペテルブルクのネヴァ川の河畔に係留・保存されている。艦名はローマ神話に登場するアウロラのロシア語名に因み、日本語文献ではしばしばアウロラ、オーロラとも書かれる。
アヴローラ(1903年)アヴローラは、極東に回航され太平洋艦隊に配備されるパルラーダ級防護巡洋艦3 隻の1 隻として、1897年5月23日サンクト・ペテルブルクのアドミラルティ造船所で起工した。
日露戦争においては、ネームシップのパルラーダは、旅順で日本軍に鹵獲され、巡洋艦津軽となる。三番艦ジアーナは、黄海海戦に参加。戦闘後、サイゴンに逃れ、この地で抑留された。
アヴローラは、バルチック艦隊の主力である第二太平洋艦隊所属となって、ロジェストウェンスキー提督の指揮下、極東へ派遣された。なお、極東回航の途中で、アヴローラは、悪名高いドッガーバンク事件で友軍艦艇の砲火を浴び、損傷を受けている。
1905年5月27日から28日にかけて日本海海戦で死闘を演じるが、僚艦が連合艦隊に撃破される中、戦線離脱に成功し、中立国であるアメリカ領フィリピンに到達し、マニラで抑留された。
1906年にバルト海へ戻ると、武装を降ろしてバルチック艦隊の練習艦となり、バルト海・地中海・インド洋で活動した。1914年第一次世界大戦が勃発すると巡洋艦に復し、翌1915年改装工事が着手され、152mm砲14門に換装された。1916年年末に大改装のため、ペトログラードに回航される。しかし、アヴローラが移動したペトログラードは革命前夜の緊張に溢れかえっていた。1917年二月革命が勃発すると、アヴローラの乗組員の一部は反乱に参加した。アレクサンドル・ベリシェフを長とする革命委員会(ソヴィエト)が艦内に設けられ、多くの乗組員がボリシェヴィキに同調した。
1917年10月25日アヴローラは、外洋への航海命令に抗命し、ここに十月革命の火ぶたは切って落とされた。同日午後9時45分前部主砲が砲撃を開始し、これを合図に冬宮攻撃が開始され、アヴローラの乗組員も戦闘に参加した。
これにより、1917年におけるロシア革命におけるアヴローラの果たした役割は重視され、以後のソ連の歴史家によってロシア革命及びソ連史上、最も劇的な瞬間のひとつとして喧伝されることになった。もっともソ連崩壊後の歴史の見直しによって、アヴローラの果たした役割についても検証が行われた。その結果、アヴローラの砲撃と武装蜂起への参加には疑問符が投げかけられるようになった。実際、ソ連時代の歴史家たちもこの問題に対しては様々に異なる見解を発表して歴史的な争点ともなっていった。例えば、アヴローラの冬宮砲撃を疑問視する歴史家から、アヴローラが当日、ペトログラードに不在であったと主張する者、挙げ句の果てには、現在、ネヴァ川にあるアヴローラを複製品であると主張する者まで現れ、アヴローラをめぐっては、虚実取り混ぜた様々な言説が飛び交っている。